◆原点 「勘七茶屋」
1300年代の嘉歴時代に「3人寄れば文殊の智恵」で有名な智恵の仏様「文殊菩薩」を祀る智恩寺文殊堂の前で餅を売っている老婆がおり、その餅を食べていた子供が大人をしのぐ利口者になったとの事が名物「智恵の餅」の発祥と伝えられており、1690年(元禄3年)智恩寺山門前に勘七茶屋として創業が始まった。
代々幾世勘七がその味を守り、現在13代になる。

  ◆お宿としてのスタート「対橋楼」
智恩寺文殊堂に参詣し、天橋立を訪れる人々が増え、智恩寺さんの許可を得、勘七茶屋の向かいに1868年(明治初年)、宿として「対橋楼」を創業する。
【 名前の由来 】「対橋楼」とはその昔宮津藩主のお殿様が野駆けに天橋立にお越しになられた時 天橋立に対し、絶景の場所にあることから「対橋楼」と名づけて頂きました。


◆与謝野晶子をはじめ多くの歌人ゆかりの宿

与謝野寛・晶子夫妻は昭和5年5月22日(2泊)され、広間にて天橋立の作品を多く書かれました。また昭和15年4月には5年前にご主人を亡くされていた晶子さんは末女の藤子さんを伴ってお越しになられました。その時も多くの作品を残されましたが、残念なことにこの天橋立への吟遊の旅の帰京直後、脳溢血が再発し2年後帰らぬ人となりました。全国各地を吟遊されておられた晶子さんですが当地が最後の吟遊の地となったのです。

平成18年7月天橋立を守る会では天橋立を愛した与謝野寛・晶子夫妻の歌碑を天橋立内に建立しました。(作品は当館内、「晶子の部屋」にて展示しております)

◆ミニギャラリー「晶子の部屋」

当館では館内に「晶子の部屋」というミニギャラリーを設け、与謝野晶子・寛のかけ軸などの歌、野口雨情、林芙美子の色紙などを展示しております。



「対橋楼」(文珠荘グループ)の歴史
   
1690年(元禄3年) 「勘七茶屋」を智恩寺山門前に創業
1870年(明治初年) 「対橋楼」を開業
1954年(昭和29年) 「文珠荘別館」(のちの「松露亭」を開業
1966年(昭和41年) 「文珠荘新館」(のちの「文珠荘」)を開業
1971年(昭和46年) 「対橋楼」を増改築し「ホテル対橋」と改称
1992年(平成4年) 「ホテル対橋」を和風旅館らしく一部改装し「お宿対橋」へ改称
1995年(平成7年) 「文珠荘 別館」を〝全館茶室風〟をコンセプトに全面的にリニューアル、
名称を「文珠荘 松露亭」と改称。
1999年(平成11年) 天橋立温泉開湯
2000年~2001年
(平成12~13年)
「ホテル対橋」を智恩寺門前にふさわしく創業当時の面影を残す建物としてリニューアル。館名も創業当時の「対橋楼」へ改称する
   
   



◆天橋立に佇む 「松露亭」
1954年(昭和29年)文殊堂岬に京の名工の手により全館総平屋数奇屋造りの「文珠荘別館」として開業。
常宿にして頂いた作家の故山口瞳氏は「行きつけの店」にて「何もかも真ッ平で穏やかである。その平面はどこまでも続く。『平ら』が心に浮かぶとき、私は穏やかでユッタリとした気分になる。・・・日本人なら一度はあの真ッ平らな光景に接してもらいたいものだ。」とご紹介いただきました。
「天橋立の松の葉先に結ぶ露、旅の宿で人の結ぶ縁の深まりに思いを寄せる」とし、現在、天橋立国定公園内にある唯一の宿としてお客様をお迎えする。
◆1995年(平成7年)〝全館茶室風〟をコンセプトに全面的にリニューアル、名称を「文珠荘 松露亭」と改称。


名づけは常宿としてご利用頂いている作家の藤本義一氏。
また当時国鉄のフルムーンの大流行となった上原謙さんと高峰三枝子さんのCMの舞台として登場。
  ◆全室から天橋立ビューの宿 「文珠荘」
1966年(昭和41年)目前に天橋立運河、天橋立松並木を借景として「文珠荘新館」(のちの「文珠荘」)を開業。
設計は皇居の基本設計を担当した日本を代表する建築家吉村順三氏。吉村順三氏の作品に魅せられた11代幾世勘七は設計を吉村氏に依頼。多忙の中一度は断られるが「すさまじい情熱に負けた」とのことで承諾。
吉村順三氏の思想である「簡素で美しいものの追求」をモットーに心和む水際の風景、快適な泊まり心地、和のリゾート感覚、その空間づくりに改装を重ねる。
◆1999年(平成11年)天橋立温泉開湯


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